Re: 玉響に東天紅

140字で書くつもりじゃないものを140字で書いちゃったやつをまとめ直すとこ

とある劇場に泊まった夜の雑感

劇場の天井の愛おしさよ。


いまはなきタイニイアリスを思い出す。
あの劇場でのことも思い出す。
もう二度と会えない人のことも思う。


連絡なんて特に取らなかったのに
二度と会えないと知ってから
同姓の方の名前とかやたら目につく。


二度と会えなくなってからFBで見つけて、でも承認されない友人申請は送れない。


こないだ兄さんに、話すかどうか迷って、言いそびれたんだ。
代わりに、今度飲みましょうってだけ言ったな。
兄さんのことだから、感傷にもひたらず、ただ受け止める気もするけど。


もうあの12人は揃わないのだ。


僕は、主宰or作演をどうしようもなく愛してしまっている劇団員、とか
バディ的な役者さん、というのにどうにも弱くて
劇団員だけ少し残るカテコとかそれだけで泣きそうになるんだけどそれは置いておいて
そのバディを亡くしたあの作家さんに
どうやって寄り添えばいいのか僕にはわからないんだ。


あと別の話として、僕はきっとどう頑張っても
最愛の人のバディにはなれないんだけど
まぁそれは別の話。
憧れは理解から最も遠い感情だからね。


なんの話だっけな。楽しい話も心踊る計画もたくさん話したのに
1人になると、1人で劇場の天井を見てると、どこか知らないところに吸い込まれそうだ。
悲しいことでも、つらいことでもないけれど。
寂しくはあるのかも、少し。


小さな思い出がほろほろ蘇る。

インターネットの先駆者的世代としての懐古

「そういうことするのやめて、嫌いになるよ」という言葉に対して
「私べつに嫌われてもいいもん」と返してくる相手との間に生まれる
このディスコミュニケーションをどう克服していくか。


同じことやり返したら相手も同じだけ傷ついてくれるなら話は早いんだけど
そうじゃないから厄介だ。と思う。


たとえば女の子がスッピン撮られる苦痛を
(あ、私は全然平気な人なんだけど、でも想像はできる)
どうやったら男子にわかってもらえるのかな。


「いいじゃんいいじゃん、かわいいよ」じゃないんだよ。
しかもそういう人に限ってSNSにさっくり載せたりするから
人間ってわかりあえないなと思う。


でもよくよく考えてみたら、私なんかは
デジタルツールと「一緒に育ってきた」世代だから
失敗が許される頃(普及率的にも年齢的にも)にたくさん失敗をしていたんだよね。
年上の人に対して、なんでこんなリテラシーもないんだろうとか思っちゃうけど
大人の方がむしろ勉強する機会はなかったのか。


失敗といえば、かはわからないけど
高校~大学時代によく「おこづかいサイト」使ってたな。無料登録とか。
本名が珍しいからさすがに資料請求とかにはあまり手を出さなかったけど。
個人情報(アドレス・電話番号)をある種換金する感覚に近かったけど
これ、この先マイナンバーとか、やばそうだな。


絵の無断転載、自作発言系も、もう長年見てきたイタチごっこだよなぁ。
先人の知恵と対策を上回る速度で技術が発展していく…。
あと肉般若とか15年前かよまじかよ。
電車男も10年前かーって見返してたら、電車男当時22歳とかで
なんかもうすごい衝撃を受けている。
懐かしいなぁ。

 

「そんなにインターネットが楽しいなら

 インターネットにごはん作ってもらいなさい!」
と母に怒られたのも、電車男IEで夢中になって読んでたときだった。
まだ話題がメディアに出る前、まとめサイトだけあった頃。


てかなんだこの懐古おばはん。
話がズレて終わった。まぁいいや。

最近音ゲーにハマっている話

ゲーセンに通うようになって思ったのは
ユーザーネームと腕前しか知らない友人っていいなぁということです。
パーソナルな部分を晒すことなく、ある種の匿名性を保ったまま
共同作業をして楽しむということの、純粋な楽しさ。


趣味ってこういうことなのか。


ソシャゲのギルドにも似たようなものを感じる。
HN文化で育ったから、単純にそれが懐かしいのもあるのやもしれぬ。

終演翌日

目が覚めて、入り時間何時だっけ、って焦って
終わったんだ、ってまた寝て
もう一度目が覚めて、入り時間………という
私なりの「ああ終わってしまったんだ」という儀式をやってます。
化粧落とさずに寝たこと後悔してる。


あとはSNSなどの次回情報を全部なおして
それから、鞄に台本を入れなくなって
それから……。


別れを心のなかで整理していく、小さな儀式を繰り返す。

打ち上げ 解散 帰り道

僕たちはわかりあえない。
僕たちはわかりあいたい。
それでも同じ煌めきを一瞬みるため
何かを信じ、すがり、旅を続ける。


夜があける。


なんだか誰かと少し話すだけで泣き出しちゃいそうで
ふらりふらふらといなくなることが多くてごめんなさい。


次に会うときは、もっとおとなになってるようにするよ。
みんな大好きだったの。
僕なんかが同じ土俵に立つなんて、って、思うくらい
でも、それ言ったら失礼だから、不誠実だから、


だから、


いつかあなたが、他の誰かに、
私と同じ作品を共に創ったことを自慢できるような、そんな役者であり続けるよ。

友人関係とファンであることは両立するから付き合いの観劇はしない

「友達少ないし、忙しいのを"付き合い"で来てもらうより、
 観たくて来てくれるファンの方を増やそう」
というポリシーでわりと活動しているのだけど
今日は鉄道繋がりでブログを購読してくれる方が来てくださって
「舞台演劇初めて観たんですけど、面白いですね!」って
言ってもらえて本当に嬉しかった。


私は舞台が好きで舞台に立っている人間だから
(映像や芸能界への入り口という位置づけでなく、という対比で)
私がきっかけで舞台の面白さを知ってもらうというのは
目標であり自分に課した使命のひとつだとも考えている。
というわけで一人、目標達成!やったー!


冒頭で述べたポリシーについて補足すると
友人関係でありながらファンであるという事は成立すると私は考える。
「あいつこないだ行ってやったのに来ねーのか」
みたいな話する役者に同意できないだけ。
観たいもの観たい人を観ないと心が自分のものじゃなくなるでしょ。
あと、自家発電的演劇ムラを打破したいという思いもある。
『都市の舞台俳優たち』はすごくヒントになりそうと思いつつ未読。


少し話を戻す。
そうは言ってもファンが友達しかいなかったら
友達でいるための"政治"が高確率で発生するだろうな。
そう考えると自分のパーソナリティー抜きで
作品(≒演技)を評価してくれる人の存在は意外と大きい。
自信にもなるしね。


ちなみにこないだ役者仲間にそんな話をしたら
「僕のは付き合いで来てください」って言われたから
「馬鹿言うなあなたの芝居好きだから普通に調べてでも行くわ」って返したよ。
これが友人関係(役者仲間)でありながら
その人のファンであるということだと思う。
私も役者仲間にたくさんファンになって欲しいなぁ。


その人の演技だけでチケット代の元が取れる役者さん、というのが
私が同じ役者仲間のファンになる条件な気がするし
(ウン千円したけどこの人の芝居を見れたから大満足!というね)
それは自分に課している一つの突破すべきラインでもある。

 

口だけになっちゃいかんな。

創る作品こそが答えで正義だ。

何巡目かのループ

いったい何度の過ちを経て
選択を繰り返して
たどりついた世界線なんだろうここは。


平行世界のどこかには
あの事故に巻き込まれてあなたを失った私や
あの日あのまま未来を失った私がいて
そんな嘘みたいな針の上の奇跡に立っている。


なんか余計なことばっかり思い出してしまうな。
気持ち切り替えなきゃな。