Re: 玉響に東天紅

140字で書くつもりじゃないものを140字で書いちゃったやつをまとめ直すとこ

僕にとってのリアルを探しながら

僕は何故舞台を観にいくのだろうかという考察を、引用を踏まえて。

世界が、とても狭くなってしまった。
ここには二つの意味が含まれている。第一に、メディアの発達によって、世界の様々な場所で起こっている出来事を、簡単に知ることができるようになった。(中略)その結果世界は確かに「狭く」なった。メディアの中では、自爆テロもオリンピックも、あたかも目の前で繰り広げられている一連のショーのようだ。それらは悲しみや怒りや喜びといった強い感情を引き起こすけれど、自分自身は日常生活という「観客席」に座ったままなのである。
これは未曾有の状況である。人間は長い間、自分が住む小さな共同体=ムラの外で何が起こっているかを確かめるには、旅に出るほかなかった。「旅」とは身体がリアルな時空間の中を運動することであり、その運動を通して世界を経験することである。これは、生き物として自然なことでもあった。一方メディア環境においては、身体の運動なしに世界についての知識が獲得される。そこでは反対に、より多くの情報を得るためには、より長くモニターの前に座っていること、つまりできるだけ身体を動かさないことが必要になる。そこでは知覚と運動とが分離されている。その意味で、生き物としてたいへん無理なことを強いられているわけだ。
(中略)
八〇年代末、「オタク」ということがよく話題にのぼった。さて現在、多くの人はマニアという意味のオタクではないけれども、「オタク」的な心性はこの十年あまりの間に、社会にしっかり根を下ろしたようにみえる。すなわち人々は、外の世界「について」の言葉やシンボルを操作するのは巧みだが、自分の世界「の中で」それらを意味づけようとはしない。まるで「幽体離脱」のように知識と身体を切り離す術を習得してしまったのである。
かつては、わずかな情報を手に入れるために、図書館に通って片っ端から資料を調べたり、注文した外国雑誌を何ヶ月も待ったりしなければならなかった。(中略)逆説的に聞こえるかもしれないが、こうした「効率の悪さ」が、とても複雑な意味の場を形作っていたのである。長い時間のかかる作業は人にいろいろなことを考えさせたし、その途中で思いがけないものが見つかったりした。それに対し、探しているものがすぐ見つかる情報空間とは、裏を返せば、「単に探しているものしか見つからない」退屈な場所だともいえる。
こんなふうに言ったからといって、昔を懐かしんでいるわけではけっしてない。そうではなく、人間がつねに身体をともなった存在であること、情報に意味を与えるのはこの身体を通してしかありえないことを、今一度思い出そうと言っているだけだ。(中略)大切なのはむしろ意識の中で「頻繁にスイッチを切る」習慣かもしれない。
(後略)

吉岡洋の新聞論説による

僕は進んだ学部(情報コミュニケーション学部)からもわかるように
なかなかのネット中毒です。
父がパソコン関係の卸売りをしているので
物心ついたときにはすでに自然とパソコンがありました。
小学校五年生のときにネットを使い始め、六年の頃にホームページを開設。*1
だけどもドップリ浸かりだしたのは
携帯電話を携帯するようになった高校一年生のときでした。
高校になじめなかった僕は某巨大掲示板の某スレにずっと一日中入り浸ってました。
授業中も、帰ってからも。ネタもないのに無理矢理きっかけ作っては書き込んで。
そこではレスポンスが返ってくるんですね。
どんな形であれ、自分が発したものが存在として残る。
自分は"みんな"に向けて発信できて、その返事によって自分自身の存在を確認していた。
その頃は別の某2chSNSにも参加していて
いわゆる今で言うmixi中毒に近い状態でした。
時間だけが過ぎていって、ふと振り返ったら
そこには幻しか残っていなかった、と今になって思います。
実を言うと、僕は高校一、二年生の頃の記憶がほとんどありません。
たくさんの情報を確かに「目にした」んだけど
それはすべてふわふわと通過していってしまいました。


で、今回の議題である「何故僕は舞台を観にいくのか」ということですが。
結論から言うと一番"行動が必要"だからでしょう。そして一番"五感を使う"から。
インターネットという電脳世界で
半分光の粒子になりつつあった僕が出合った舞台・観劇という世界。
それは強烈なリアリティを僕にもたらしました。
考えてみると、他人が汗水たらして何かを創り上げる瞬間って
機会を持たないとそう見れませんよね。*2
誰かが何かを創り上げるその瞬間に立ち会うこと。
それを目で、耳で、鼻で、そして肌で感じること。
ブラウザを通した「観客席」で傍観ばかりしていた僕には衝撃でした。


面白い物語が見たければインターネットで検索すればそれこそいくらでも手に入ります。
だけどもあえてわざわざ劇場まで"足を運ぶ"理由は、その"足を運ぶ"という行為によって
自分の身体的な行動と、(情報量が多いとはいえ)受身でしか獲得できない体験を
組み合わせることができる、
引用文の言葉を借りるなら「分離」された「知覚」と「運動」を
再結合させることができるからかな。
足を運んで、パンフ買って、劇を見て、
終わった後出待ちして役者さんとお話させていただいたりして。笑


僕が舞台を観に行くもうひとつの理由についてまた引用を。
…と思ったら、引用しようとしてた文章の載った教科書を
学校に忘れてきてしまったことに気づいたorz
一回性の話ね。まぁ引用なくても話せるんだけど、引用した方がわかりやすいじゃない。
こっちについてはまた機会があったら。だめ?んー。
まぁじゃぁ、あとから引用文足すってコトで。


舞台のもうひとつの面白さに、当然といえば当然だけど、その一回性があると思います。
自分がその瞬間にその場に立ち会うこと、その瞬間は二度と来ないこと。
昨日の「さようなら」と今日の「さよなら」は時に意味さえ違って。
昨日の泣き顔と今日の泣き顔は二度と同じものはなくて。
その瞬間に自分が立ち会える。五感をフルにつかって感じ取れる。
すごく魅力的なことです。


しかし書いてて気づきましたがこの一回性、時に大きな呪縛にもなりますね。
二度とないから、決して逃さないようにしないといけない。
そう自分に思い込ませてしまうと
次から次へその"一回"を拾い集めることに追われてしまいます。
"一回"の共有者はしばしばある種の共犯者的な連帯感を持つと私は思います。
そしてその共犯者的な連帯感の中に非共有者は入っていけない。
それが怖くて、その"一回"を取りこぼさないように、
何かに追われるように情報を更新していく。
うーん、不毛ですね。自分もその傾向がかなりありますが。


…あれ、結論が出てない。笑
結局僕が舞台を観にいくのは「体験」に直結するからだということ、
そしてその一回性に魅せられたから、ということだと思います。
何故「舞台」でなきゃいけないかは多分趣味の問題です。
ライブはそこまで肌が合わなかったみたい。


「人間は居ても立ってもいられない動物だ」という言葉が
以前読んだ小論の中にありました。
結局得た情報の咀嚼は身体的な行動があってこそなんだろうと思います。
そう考えるとアニヲタの聖地巡業なんかも少しは理解できます。
鷲宮神社とか大変らしいね。
そして普段動かない人や「傍観者」として育ってきた人(世代的には所謂ゆとり世代)ほど
反動として行動と知識・思考が直結する時のパワーはすごいんじゃないかな。

*1:実は今もサイトあるんですよ。休止中ですが。

*2:もしかしたらスポーツ観戦が好きな人にも通じるところがあるのかなぁ。僕は中継しか見ないからわからないけど。